【都市伝説】秀吉が恐れた本能寺の嘘 家康と共謀した光秀

日本人であれば、本能寺の変を知らない人はいませんよね。

この本能寺の変、日本の歴史の中でもトップクラスのミステリーとされています。

信長、光秀のどちらも、実は生きていたという逸話が残り、また、謀反に至った理由についても歴史専門家の間で多くの説に分かれています。

今回は、その中で、

「光秀と徳川家康は本能寺の変で内通していた。さらに光秀は秀吉に殺されておらず、家康と共に江戸幕府を築いたという説を紹介したいと思います。

この説は数多くある説の中でも特に歴史ロマンに溢れた説なのですが、同時に多くの反論を受けています。あくまで都市伝説としてお楽しみください。

この説では、

なぜ徳川2代将軍忠と3代将軍家に、徳川にとって盟友信長の仇であるはずの明智光秀の「秀」と「光」が一文字づつ使われているのか。

なぜ家光の乳母が本能寺急襲を指揮した明智家重臣、斎藤利三の娘であったのか、

春日の局
春日の局(斎藤利三の娘)

といった謎に迫りたいと思います。

まずは一般的に知られている本能寺の変についておさらいしたいと思います。

本能寺の変の通説

明智光秀が率いる軍勢は、毛利軍と対峙する秀吉を援護するため、中国地方に向け出発しました。

しかし、急遽その方向を変え、信長の滞在している本能寺へ向い、これを包囲しました。

明智軍13,000人に対し、信長は100人足らずの手勢という圧倒的な状況の中、信長は奮戦しましたが、やがて寺に火を放ち、自害しました。

信長の遺体は発見できず、明智軍は信長の死を証明できなかったため、織田家の家臣を引き込むことに失敗しました。

さらに、毛利攻めから予想外の速さで戻った豊臣秀吉によって、準備の整う前に攻撃を受け、山崎の戦いで敗れます。

中国大返し2

光秀は敗走中に報奨金狙いの農民の竹やりによって致命傷を受け、切腹しました。

光秀の謀反の理由としては所説ありますが、

光秀が信長を恨んでいたとする怨恨説と下克上によって天下を取ろうとしたとする野望説が多くのドラマや歌舞伎で使われ、世間に広く知れ渡っています。

怨恨説

通説をおさらいしたところで、光秀・家康共謀説について、詳細に入りたいと思います。

明智光秀は信長が描いた家康襲撃計画を利用した

実は光秀は信長から家康を謀殺する命令を受けたという説があります。

例えば、ルイスフロイスの日本史や本能寺の変に従軍した兵士(本城惣右衛門)が親族に宛てた書類には「本能寺で三河(家康)を襲撃すると思っていた」とあります。(他にも秀吉や細川藤孝と交流のあった江村専斎が書き残した『老人雑話』など)

なぜ信長は、盟友であるはずの家康を亡き者にしようとしたのでしょうか。

織田にとって、徳川との同盟の第一目的は甲斐の脅威、武田家への抑えでした。しかし、この甲斐武田も本能寺の変の3か月前に織田、徳川連合軍によって滅ぼされ、織田領となっています。

甲斐

これにより徳川との同盟の必要性は薄れました。むしろ、上杉、武田、本願寺といった脅威がなくなった結果、力を蓄えつつある家康率いる徳川軍は潜在的脅威と考えたのではないでしょうか。

そこで信長は織田家中で最も謀略に長けた明智光秀を使い、家康を謀殺しようとしたと考えられます。

信長が光秀に指示した家康襲撃計画は次のようであったと推測されます。

1.武田の抑えを果たした徳川を労うという口実で家康を三河から上洛させる。

徳川上洛

2.光秀に家康の饗応役を任せる

3.中国遠征を理由に饗応役の光秀を途中で解任し、家康襲撃の準備にあたらせる

光秀は坂本城へ

4.信長は小姓を中心とする僅かの供回りと共に本能寺に入る。あえて少数にすることで、徳川の警戒を解く。

信長本能寺へ

. 家康を信長の待つ本能寺に誘い出す

家康を誘い出す

6.道中、あるいは本能寺にて、待機した明智の軍勢が家康一行を襲撃する

家康襲撃

.光秀は与力の細川、筒井を従え、当主不在の徳川領へ電撃侵攻する

三河侵略

家康には、徳川四天王と呼ばれた、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政も同行しており、この計画が成功した場合、徳川滅亡は必至だったと考えられます。

しかし、光秀はこの計画の盲点に気づきます。それはこの計画を利用することで、信長を討ち取ることができるというものです。

これまで、幾度となく命を狙われた信長は、謀反を常に警戒しています。しかし、この計画では、信長は謀略する側であり、謀反に対する警戒が緩んでいます。

さらに信長子飼いの秀吉や柴田勝家など主だった武将は遠征に出ており、光秀に取って絶好の機会だったのです。

また、光秀が信長襲撃を成功させるためには、家康を引き込む必要がありましたが、

これも信長によって家康の饗応役を命じられていたため、信長に疑われることなく、家康と密談することができたのです。

光秀は同じく信長から家康襲撃の命を受けていた細川藤孝を引き込み、3者で家康と同盟を結び、信長襲撃を計画。家康は信長に騙されているフリを演じ、光秀が信長を襲撃しやすい状況を作ったということになります。

しかし、残念ながら、計画は成功しませんでした。

光秀の計画には3つの誤算がありました。

誤算1:信長の首をあげられなかった

(信長の生存を恐れた織田家の他大名は、光秀に味方しませんでした)

誤算2:細川藤孝の裏切り

(光秀の再三の要請にも関わらず、藤孝はこれを黙殺。藤孝とは子供同士の婚儀を済ませたばかりであり、光秀にとっては青天の霹靂であったに違いありません。)

誤算3:秀吉の中国大返し

(予想外のスピードで秀吉が京に戻ったため、防衛体制を作る時間がありませんでした)

これらの誤算によって、計画は失敗し、光秀は無念の死を遂げました。

伊賀越えの嘘

家康が光秀と共謀していた説の反論として神君伊賀越えの矛盾があげられます。

家康の伊賀越えとは

本能寺の変を知った家康が、わずか34名ほどの家臣と服部半蔵率いる伊賀者の護衛だけで、明智の追撃と戦いながら伊賀の山を越え、命からがら三河に帰ったというものです。

伊賀越え

もし、光秀と共謀していたのであれば、追手の心配はなく、安心して三河に戻れたのではないかという指摘です。

この反論については家康が三河に戻ってからの行動を見ると、その真相が見えてきます。

本来、同盟国であり義兄弟であった信長が殺されているのですから、秀吉と同様に、家康も光秀討伐のため、京へ向かうはずです。

ところが、家康は火事場泥棒的に甲斐の織田領土に攻め入り、甲斐全土を占領しました。

甲斐侵攻2

もちろん、この事実だけでは伊賀越えの過酷さの理由にはなりません。

その理由についてはもう一つの事実が手掛かりになります。

家康と同じく伊賀越えを試みた人物に穴山梅雪がいます。

穴山梅雪

この穴山梅雪は家康と別行動したため、追手(雇われた農民)から襲撃を受け、死亡したとされています。

記録では家康と梅雪一行は総勢34名でしたが、家康は服部半蔵率いる伊賀者190人を護衛に従えていました。(伊賀者由緒忸御陣御伴書付 )

なぜ、そのような護衛集団を離れ、梅雪は危険な単独行動をする必要があったのでしょうか。

「徳川実紀」には梅雪は家康を疑って別行動したとあります。また、「織田公記」「松平家忠の日記」には切腹して死んだとあります。

ここから一つの仮説が生まれます。つまり、梅雪は家康によって切腹に追い込まれたのではないかという仮説です。

なぜ家康は梅雪を消す必要があったのでしょうか。

梅雪は元々武田家の重臣でした。信長が武田を攻めた際、徳川の調略によって織田家に寝返り、甲斐の領地を信長から拝領しています。

勝頼との関係

つまり、帰国後、甲斐を攻めるつもりの家康にとっては邪魔な存在だったのです。

しかし、普通に殺したのでは、同行した自分が疑われてしまいます。そのため、

明智の追撃に見せかけて謀殺し、さらに、自分たちも命からがら逃げ帰ったと嘘をつかなければならなかったのです。

そもそも、命からがらと言いながら、家臣が全員無事に帰ったというのは不自然ではないでしょうか。

中国大返しの嘘

光秀の計画の失敗には3つの誤算があったと説明しました。

3つの誤算とは

誤算1:信長の首をあげられなかった

誤算2:細川藤孝の裏切り

誤算3:秀吉の中国大返し

の三つです。

もしこれらの誤算がなければ、歴史は変わっていたと考えられます。

本当にこれらは誤算だったのでしょうか。

実はこの誤算はすべて、秀吉の謀略によるものであった可能性があります。

まずこの中国大返し、通説通りに解釈するとかなり無理があります。

不可解な点として次の点があげられます。

・ある日には大雨・暴風の中、7080kmを行軍している

・2か月以上もの間、膠着状態が続いた毛利軍と一日で和睦を成し遂げている

・本能寺の変は各地に伝えられており、大国毛利が知らなかったとは考えにくい

しかし、ある条件が整えばこれらの疑問は全て解決します。

それは、「秀吉が光秀の計画を知っていた」場合です。

光秀の計画は限られた重臣にしか伝えられておらず、本能寺の変に参加した兵士でさえ、現場に行くまで知らされてなかった秘匿情報です。

それほどの重要情報を秀吉はどのように手に入れたのでしょうか。実は、本能寺の変のおり、明智の寄騎(部下)でありながら、豊臣政権で出世した人物がいます。

その人物こそ、光秀と同じく信長から家康襲撃の命を受け、光秀、家康の密談の場にいた細川藤孝です。

細川藤孝

藤孝であれば、信長、光秀、家康、すべての人物から情報を得ることが可能です。

藤孝は光秀とは旧知の間柄であり、藤孝の嫡男、細川忠興は光秀の娘、あけちガラシャを嫁にもらい、藤孝と光秀は義父同士の関係でした。

明智ガラシャ

にもかかわらず、光秀からの再三の要求を黙殺。細川父子は明智に加勢しませんでした。

光秀は元々、足利義昭の家臣で、藤孝はその当時、光秀の上役(上司)でした。

主従逆転

しかし、光秀は信長に引き立てられ、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世しました。結果的に、藤孝は光秀の与力(部下)となります。

細川家は古くから続く名門であり、藤孝は実力だけでのし上がってきた光秀をよく思っていなかった可能性があります。その確執に秀吉、あるいは黒田官兵衛が目を付けた可能性は十分にあるのではないでしょうか。

細川藤孝が秀吉と繋がっていたとすると、

中国大返しは計画的に実行されたものとなり、その驚異的なスピードも周到な準備があったのであれば、現実性が高くなります。

また、信長の首も秀吉・藤孝勢力によって隠された可能性も出てきます。

名将と呼ばれた斎藤利三が本能寺襲撃を指揮しており、13,000人で囲んだ寺で、信長の首をあげられなかったということが不可解なのです。

つまり、信長の策を光秀が利用し、光秀の策を秀吉が利用し、最後に秀吉が天下を取ったということになります。

光秀は本当に山崎の戦で死んだのか

通説では光秀は坂本城への敗走中、農民の竹やりによって深手を負い、自害したとなっています。しかしながら、秀吉に持ち込まれた光秀の首の皮は剥がされていた上に暑さで腐敗していたそうです。また、光秀の屈強な護衛団が農民に主君の首を渡した理由も不明です。つまり、この首が光秀のものであるという確証はありません。

大阪府にある本徳寺というお寺に日本で唯一の光秀の肖像画が保管されています。

本徳寺

光秀の肖像画と位牌に書かれた戒名には、それぞれ光秀の字が隠されています。

位牌「鳳岳院殿雲道大禅定門」

肖像画「雲道禅定門肖像賛」

そして、位牌の裏には「慶長4(1599)に当寺を開基した」と記されており、この位牌が光秀のものであるとすると、関ヶ原の前年である慶長4年には光秀がまだ生きていたということになります。

この寺は光秀の長男、光慶によって開基されたとも言われていますが、光慶は光秀の敗死後、14歳で自害したことになっており、いずれにしても辻褄が合いません。

この寺の住職も光秀は生きていたのではないかと語られています。

光秀は南光坊天海として徳川を陰から支えた?

本徳寺の肖像画には「放下般舟三昧去(仏門に入り、出ていった)」とあります。

光秀肖像画

本徳寺の住職によれば、この寺の位牌は、仏僧としてのものであり、光秀はその後も、俗人として生きていたという意味になるそうです。

では寺を出た光秀はどこに向かったのでしょうか

皆さんは南光坊天海という人物をご存知でしょうか?

南光坊天海

家康・秀忠・家光に使えていた僧侶で、幕府の政治に深く関与したとされています。

江戸の都市計画にも関わっており、有名な陰陽道や風水に基づいた江戸の設計は天海によるものだとされています。

この天海は秀吉の死後、突然、表舞台に現れます。そして、数々の事業に大抜擢され、さらには関ケ原の合戦に軍師として参戦していたとも言われています。

関ケ原参戦

実はこの天海が光秀ではないのかという説があります。

築城技術に明るく、朝廷政策を担っていた光秀であれば、家康が江戸の都市計画と朝廷政策を任せたことにも納得が行きます。また、計略と策謀の達人として知れ渡っていた光秀であれば、仮に合戦に軍師として参加していたとしてもおかしくはありません。

一般に天海が光秀であるとする説の主な根拠は以下です。

1.天海が造営した日光東照宮にある建物や多くの像に明智の家紋である桔梗紋が刻まれている

日光東照宮の桔梗紋

2.日光に天海が名付けたとされる「明智平」という場所がある

明智平

3.徳川2代将軍秀忠と3代将軍家光には光秀の文字が一字ずつ使われている。家光の母は信長の姪であり、叔父の仇の名前の一字を使うことは不自然である。

お市関係

4.家光の乳母として雇われた女性は本能寺で信長を襲撃した斎藤利三の娘。さらに、この乳母は春日局として、徳川幕府の政治に深く関与している。

.春日局同様、息子の正勝は幕府最高職の老中にまで出世している

しかし、光秀=天海説には反論もあります

・日光東照宮にある家紋は織田家の木瓜紋である

・春日局が家光の乳母になった理由は夫である稲葉正成が関ケ原の合戦において、小早川軍を寝返らせた功労者であるため

・天海と光秀が同一人物であるとすると、天海は116歳まで生きたことになってしまう

・天海と光秀の筆跡鑑定では別人と判定。類似した文字があるため近親者と推定されている

光秀の筆跡鑑定

などがあります。

しかしながら、夫が功労者であったとしても、息子の命を狙うかもしれない仇に乳母を任せるでしょうか?ところが、もし徳川の近親者の間では、信長こそが仇であり、光秀が家康の命を救ったと考えられていたのであれば、辻褄は合います

実は光秀=天海説は明治になって初めて登場したようです。それまでは明智家重臣の明智秀満が天海ではないかと言われていました。明智秀満は明智一門であるため、筆跡鑑定で近親者と判定されてもおかしくはありません。(当時は学校がなく、読み書きは近親者から教えてもらっていたため、似てくるようです。)

奇しくも、秀満は信長襲撃を利光とともに指揮した人物であり、記録では天海と秀満は同じ1536年に生まれています。

ネットの反応

光秀は、本能寺にいるの家康と思って襲撃しちゃったんだよ

信長「ちょっ!俺、俺!ぐわぁ」

光秀「やばい、死体隠せ!」

みたいに

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信長の野望やってるけど、天海と光秀、両方とも鉄砲適正Sなんだ。

新たな状況証拠が出てきたな
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俺は天海=光秀 説よりも

天海=祐希 説を支持する

バカだなぁ。天海祐希の正体は信長だよ

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坊主で軍師とか、ワクワクすぎる設定だな

あぁ、間違いなくデカい数珠持ってるな。「南無!」って攻撃するんだぜ

まとめ

今回は日本の歴史の中でもトップクラスのミステリー、本能寺の変について、光秀・家康共謀説を紹介しました。

ここで述べた説は、多くの推測によって成り立っています。本当に家康と光秀が密談していたかどうかは本人達にしかわかりません。

一つ重要なことは、

勝者は常に歴史を書き替えているということです。400年前に起こったことだけでなく、10分前に起こった歴史も書き替えられている可能性がいあります。

私たちが今テレビや新聞で見ている情報は誰かに書き替えられたものかもしれません。

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 参考にしたサイトや書籍

しばやんの日々

明智 憲三郎氏の書籍

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